このドキュメンタリープロジェクトの発端は、アメリカの
大学院に留学していた際にネイティブアメリカンの"generation
gap"(世代間の断絶)を目の当たりにしたことです。「チベット
問題」が40年近く経過した今日、チベット難民の世代間の繋がり
はどうなっているのかを確かめたくなったのです。
アメリカで企画書を仕上げ、帰国後(1998年)、いくつかの
日本の製作会社(TV プロダクション)に企画を持ち込みまし
たが、「チベット問題」を扱っているため、にべもなく断られ
ました(日本のマスコミ(特にTV〉では、「チベット問題」は
タブーとされている)。
しかしながら、諦める気は全くありませんでした。なぜなら、
1999年が「チベット問題」にとって節目の年(重要年)だった
からです(『チベット民族蜂起40周年』; 『ダライ・ラマ亡命
40周年』;『中華人民共和国建国50周年』;『ダライ・ラマ14世ノーベル平和賞受賞10周年』;『天安門事件10周年』)。
「誰かがこの年のチベット難民たちの言動を記録しなければならない」というある種の"脅迫観念"にかられていました。
又、欧米メディアなどの「チベット問題」の描き方とは異なる
新たな視点(即ち、"世代")により、その問題を考えてみた
いとの思いもあったのです。
様々な問題の克服の末、非常な低予算(通常のTVドキュメンタリー予算の10分の1以下)の下、プロジェクトを単独スタートさせました。チベット難民の初取材は、1999年の2月から5月にかけてダラムサーラやカトマンズなど、インド・ネパール各所で行いました。
今回の取材のメインとなったピースマーチ(平和行進)は忘れら
れない思い出となりまし た。その中でも、特に印象に残っている
のが若者たちとの対話です。 ピースマーチ の半ば、 彼らから
言われました。 「俺たちは、お前も他の多くのジャーナリスト
と同様、実際はダライ・ラマにしか関心が無く、自分のビジネス
のことしか頭にない連中の一人だと思っていた。 しかし、お前は違った。俺たちと共に歩き、本当に難民のことを考えている」
この言葉を聞いて初めて、難民たちと本当の心の繋がりができた
と感じました。
幸運にも、ダラムサーラを去る当日の朝にダライ・ラマ14世
との単独インタビューが実現。 1時間以上に渡り非常に中身の濃い話し合いが持てました。チベット・「チベット問題」・チベット人社会・仏教に対するダライ・ラマの真の政策・哲学・ 夢をジャーナリストとしてきちんと伝えていかねばならないと感じたことは言うまでもありません。
インタビューの後、友人である豪快なチベット人僧侶が私の顔
をしげしげと見つめて「おまえは本当に運が良い奴だ!」と繰り
返し言うのです。「何故だ?」と聞くと、「知らないのか!?」
「今日は、ブッダ・ジャヤンティだ!」
なんと、その日は「仏陀の誕生日」で、私はそんな"大変"な日に ”Living Buddha”にインタビューをしていたのです。
これを、「カルマ」と呼ぶのかもしれません。
(December 2000)
P.S.その後の厖大な「編集作業」も単独で凌ぎました。人間、
本当に決心すれば出来るのです。「英語版」も完成。国際映画祭にも招待されました。「一人では無理」と言って頂いたマスコミ先輩諸氏、あなた方はやはり間違っていた。
「意志あるところに道は開ける」−300キロ以上のピースマーチを共に歩き通した汗と誇りにまみれたチベット難民たちの「顔」が今も脳裏に浮かぶ。
(December 2002)
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